「丹波篠山 山家の猿が 花のお江戸で芝居する♪」
今も丹波篠山の人々に歌い継がれるデカンショ節。
かつて城下町として栄えた丹波篠山の地は、江戸時代の民謡を起源とするデカンショ節によって、地域のその時代ごとの風土や
人情、名所、名産品が歌い継がれています。
人々はこぞってこのデカンショ節を愛唱し、民謡の世界そのままにふるさとの景色を守り伝え、地域への愛着を育んできました。
その流れは今日においても、新たな歌詞を生み出し、新たな丹波篠山を後世に歌い継ぐ取り組みとして脈々と生き続けています。
300番にも及ぶ「デカンショ節」には、篠山の歴史と文化が歌いこまれています。
篠山を訪れると歌詞の中の風景が今も脈々と息吹いているのを感じられます。
囃子言葉の「デカンショ」の語源は「ドッコイショ」が転化したものなど諸説あり定かではありません。
デカンショ節には人々の生活、文化、伝統、歴史が歌いこまれています。デカンショ節は江戸時代から唄われていた、篠山地方の盆踊り唄「みつ節」が変化したものであると伝えられています。
みつ節は、一年中続く厳しい農作業や労働に明け暮れた人々にとって、かけがえのない楽しみであり、夜明けまで歌と踊りが途切れることはなかったといいます。
日本遺産(Japan Heritage)とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて、我が国の文化・伝統を語るストーリーを認定するものです。ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある文化財群を総合的に整備・活用し、国内外に発信することで、地域の活性化を図ります。
丹波篠山市では、時代ごとの風土や名所、名産品などを歌詞に盛り込み歌い継がれてきた「デカンショ節」をストーリーのテーマとして日本遺産に申請し、平成27年4月21日に開催された「日本遺産審査委員会」における審議を経て、第1号の「日本遺産」に認定されました。
兵庫県丹波篠山市は京都・大阪に近接し、虚空蔵山と和田寺山に挟まれ、四斗谷川を有する山間に現在も続くやきものの里。主要な窯が並ぶ立杭地区は、地形に恵まれ、丹波特有の霧が早々に晴れ上がることから、やきものの乾燥には適した地でした。丹波焼の発祥は、平安時代末期から鎌倉時代初期にさかのぼります。当時は、山腹に溝を掘り込み、天井をつけた「穴窯(あながま)」を用いて、甕や壺、すり鉢など、庶民の求めに応じたやきものの生産が盛んに行われていました。
慶長末期に入ると、朝鮮式半地上の登り窯が導入され、短い焼成時間で、一度に多くの製品をつくるとこが可能に。新しい技法を手に入れた陶工たちは、同時期に取り入れられた蹴ロクロや、灰や鉄などの釉薬を用いて、生活に即したやきものの製造に力を入れます。
江戸末期、さらに新しい釉薬や漉土(こしつち)によって陶土の質が改善。釉薬を掛け合わせることによって生まれる多彩な模様や、さまざまな用途のやきものが生まれました。昭和20年代に入ると汽車茶瓶やブロックなど、新しい製品の製造をはじめる一方で、昭和40年代には窯業指導所や民藝運動家のはたらきかけによって、民芸品の生産高が急増していきました。現在も、丹波焼の伝統を生かし、暮らしに寄り添うやきものがつくられています。
ひとつの技法にとらわれず、時代の要請を敏感に察知し、さまざまな生活用器をつくり続けてきた丹波焼。常滑や越前窯と同じ穴窯を備え、焼成時にかかった灰による明るい自然釉が見事な装飾となる、その景色も魅力のひとつでした。また、登窯の到来とともに考案された木灰釉を中心として、ワラ灰、栗のイガ灰などを使用。現在も釉薬の主流を占めており、その他土灰釉・鉄釉(黒釉)・白釉なども使用されています。登窯導入と同時期に、取り入れられた「蹴りロクロ(日本では珍しい立杭独特の左回転ロクロ)」といった独特の技術も現代に継承されています。
瀬戸、越前、常滑、信楽、丹波、備前のやきものは「日本六古窯」と呼ばれ、縄文から続いた世界に誇る日本古来の技術を継承している、日本生まれ日本育ちの、生粋のやきもの産地です。
1948年頃、古陶磁研究家・小山冨士夫氏によって命名され、2017年春、「きっと恋する六古窯」として日本遺産に認定されました。
中世から今も連綿とやきものづくりが続くまちは、丘陵地に残る大小様々の窯跡や工房へ続く細い坂道が迷路のように入り組んでいます。
恋しい人を探すように煙突の煙を目印に陶片や窯道具を利用した塀沿いに進めば、「わび・さび」の世界へと自然と誘い込まれ、時空を超えてセピア調の日本の原風景に出合うことができます。